コウノドリというドラマは、本当によくできていると感心します。
コウノドリの良さの一つはリアリティです。
緊急帝王切開の切迫感、NICUの様子など、リアリティがドラマからひしひしと伝わってきます。
このドラマと同じように、リアリティがとても大切になるものがあります。
それは、シミュレーション教育です。
今回は新生児蘇生法(通称NCPR)のシミュレーション教育に、リアリティが必要な理由と、どのような方法だとリアリティが増すかを考えてみます。
このページの目次です。
知識と経験
「医療の実践には知識が必要である」という命題に異論がある人はいないでしょう。
要点をしぼった問診、的確な診察、正しい診断と治療、そのすべてに知識が必要です。
では、「医療の実践には知識があれば十分である」という命題はどうでしょうか?
おそらく多くの人が「知識だけでは不十分。経験も必要」と答えるでしょう。
知識があっても、経験が足りないとどうなるでしょうか。
新生児蘇生法インストラクターマニュアルには次のような例が示されています。
NCPR修了認定を受けたAさんが、初めて分娩立ち会いをします。指導者の「赤ちゃんが生まれて呼吸をしていなかったらどうする?」という質問に対し、Aさんは「初期処置をした後、自発呼吸なし、または心拍が100/分未満ならば人工呼吸を開始します」と答えましたが、実際には、呼吸の観察や心拍が測定できず、人工呼吸ができませんでした。
新生児蘇生法インストラクターマニュアル第4版 P140
上記は「頭では分かっているのに、手が動かない」という典型例です。
2017年11月3日に、私もNCPRのフォローアップコースを受講しましたが、そこでも「NCPRを受けても、あえぎ呼吸に酸素投与しかできないものがいる」と厳しい意見を頂きました。
「いくら教育を受けて知識を得ても、経験が伴わなければ現場では役に立たないのではないか」という意見もありました。
経験が足りないと、知識を行動に変換するのが上手くいかなくなります。
知識と経験を兼ね備えて、初めて正しい行動をとることができるようになります。
教育は知識を蓄えるのに有効ですが、経験を補うのは難しいものです。
シミュレーション教育
経験を積むには現場が良いでしょう。
これをon the job trainingといいます。
on the job trainingは経験を養うためにはとても大切です。
ですが「初めての胸骨圧迫、うまく行かなかったけど、次はもっと上手くできると思います!」などという経験は、その初めての患者さんにとってあまりに悲劇です。
シミュレーション教育は、経験を埋めるための一つの方法です。
シミュレーション教育というのは、模擬患者や人形を使って、実際の医療現場のように処置をしていきながら勉強することです。
on the job trainingとは異なり、どれだけ失敗しても犠牲者は出ません。
シミュレーション教育の利点は、失敗しても許されるという条件下で、繰り返し練習し修正しながら、自分の能力を高めることができるという点です。
リアリティが必要な理由
シミュレーション教育の利点は同時に欠点でもあります。
現場の、失敗が許されない、刻々と状況が変化する切迫した緊張感の中で、正しい行動ができなければならないのに、シミュレーション教育の「ゆっくり考えられて、間違えても修正ができて、失敗が許される状況」というのはあまりに現場とかけ離れています。
現場とかけ離れた教育は、知識の蓄えにはつながっても、経験の補完にはなかなかつながりません。
そのため、いくらシミュレーション研修を重ねても、経験不足のプロバイダーしか育たず、いざ現場では「頭では分かっているのに、手が動かない」という事態に陥ってしまうかもしれません。
シミュレーション教育に大切なのは「現場さながらのリアリティ」です。
シミュレーション研修には臨場感が大切であり、人形が本当の赤ちゃんであるかのようなリアリティを演出しなければなりません。
現場さながらのリアリティは、受講者の経験不足を補い、「頭では分かっているし、手も動く」という優れたプロバイダーを作り上げます。
リアリティを演出する例
リアリティを演出するにはいくつか例があります。
一部を紹介します。
心拍を音で聞かせる
心拍を確認しようと、聴診器を胸に当てました。
インストラクターは「心拍50です」と教えました。
これはリアリティに欠けます。
現場では「心拍50です」と教えてくれる神の声は聞こえません。
自分で心拍数を数えなければいけません。
実際に1分間に50回のテンポを聞かせるとよいでしょう。
NCPRシミュレーションサポーターはその手助けをします。
あえぎ呼吸や努力呼吸を演じる
NCPRのシミュレーションでよくある光景です。
ですが、このやりとりは現場では起こりえません。
あえぎ呼吸は、見て把握するものです。
したがって、あえぎ呼吸は視覚情報として与えるべきです。
努力呼吸についても同様です。
このようなやりとりでは、リアリティが欠けます。
努力呼吸を演じるのは難しいので「肋骨の下縁を強く凹ませながら呼吸をしています。鼻の穴もぴくぴくと膨らませています」という情景描写になるでしょう。
タイマーを上手く使う
出生から何分経過したのかは、リアリティのあるシミュレーションで必須の情報です。
タイマーを上手く使いましょう。
単純に時間を計測するのではなく、どのタイミングで時を止め、どのタイミングで時を動かすのかが大切です。
受講生が慣れないうちは、行動のタイミング(アルゴリズム表では長方形の場所)でのみ時を動かすようにしましょう。
行動が終わり、評価のタイミング(アルゴリズム表ではひし形の場所)になれば、時を止めましょう。
受動的に得られる情報はどんどん与える
まだ不慣れな受講生には行わないほうがよいでしょう。
心拍数は聴診器を使わないと分かりません。
能動的に「心拍数を測りにいく」という行動が必要です。
いっぽうで筋緊張や呼吸、中心性チアノーゼなどは赤ちゃんを見ていれば伝わってくる情報です。
このような流れは現場にあまり即していないと思います。
赤ちゃんが泣いているかどうかは、あえて確認しなくても伝わってくる情報だからです。
赤ちゃんをみれば分かる情報はどんどん与えていき、時間経過ともに変化があったかどうかも伝えると、人形は生きた人間の赤ちゃんのように見えてきます。
臨場感のあるシミュレーションになります。
上手く行かない要素を共有する
まだ不慣れな受講生には行わないほうがよいでしょう。
現場では残念なことに上手く行かない状況があります。
気管挿管中の医師は心のゆとりがなくなっており、吸引チューブも挿管チューブも「チューブ!」と言ってしまい、現場が混乱することがあるでしょう。
または気管挿管が上手く行かず、食道挿管になっていることもあるでしょう。
上手く行かない要素を取り入れると、リアリティのあるシミュレーションになります。
受講者が医師ではない場合、インストラクター補助を挿管役にし、うまく行かない演技をさせることで、非常に緊張感のあるシミュレーションになります。
また、うまく行かなかったときの経験を共有するのもよいでしょう。
重症仮死の人工呼吸は気持ちが焦ってしまうため、過換気になることもあるでしょう。
胸骨圧迫のときも動揺して酸素を上げ忘れることがあるでしょう。
これらの犯しやすいミスがシミュレーション中に発生した場合は、強調すると良いです。
私は焦って人工換気が早くなってしまいそうなときは、救急車のサイレンを思い出すようにしています。
救急車のサイレンは48回/分です。
NCPRにおける人工換気は40-60回/分ですので、ちょうどいい速さです。
リアリティのあるデバイスを使う
アール・ティー・シーは、医学教育用に「新生児蘇生スキルトレーナー」を試作した。心臓マッサージの胸骨圧迫や人工呼吸機能を備え、ウレタン樹脂製の新生児モデルと専用のスマートフォンアプリを連動し、蘇生方法など手技を教育する。
今後、より新生児に近づけるためチアノーゼ症状を疑似する青色発光ダイオード(LED)を唇部分に搭載し、体温を表現するためのヒーターを内蔵し製品化する。実証実験を経て2年後をめどに総合病院や医療教育機関に販売を目指す。価格は30万円程度を予定。
2017年時点では完成に至っていませんが、リアリティのあるシミュレーションに役立ちそうです。
リアリティの追求の注意点
リアリティのあるシミュレーションは受講者の経験を補います。
ですが、ゆっくりと考え、間違っては修正するというシミュレーション教育本来の利点を失わせます。
成人教育の基本は「受講者中心」であることを忘れてはいけません。
「リアリティのないシミュレーションは現場で役立たない!」という考えを押し付けて、インストラクター中心の講習会になってはいけません。
まだ知識が確立していない受講者もいるでしょう。
そういう受講者にはリアリティよりも、時間を止めながらアルゴリズムのひとつひとつを丁寧に行っていくことが大切です。
アクティブな受講者もいれば、内省的な受講者もいます。
緊張感のあるシミュレーションで集中力を発揮する受講者もいれば、逆に頭が真っ白になって教育どころでなくなる受講者もいます。
その人に合わせた教育をする。
それが受講者の意欲につながります。
受講者の意欲は積極的な教育参加につながり、これをファシリテーションといいます。
受講生の状態は、受講中にも変化していきます。
最初は緊張していて消極的でも、だんだん慣れて積極的になってくる場合もあります。
最初は知識不足が目立っても、シミュレーションの後半では知識は整理され、応用が効くようになっていることもあります。
リアリティの追及はファシリテーションの一つであり、すべてではありません。
受講者によってはリアリティを抑えたシミュレーションも必要でしょう。
たいていの場合、最初はリアリティを抑えたシミュレーションで始め、受講生たちが慣れて来たらリアリティのレベルを上げていく(見れば分かるような情報は積極的に与え、できるだけタイマーは止めない)ようにしていくと上手く行きやすいです。
まとめ
経験を補うためのシミュレーション教育として、リアリティの必要性と、それを高める方法を書きました。
実際の現場は、「評価しながら行動する」という立ち回りになります。
これができるようになるためのシミュレーション教育には、極めて高いリアリティが必要となるでしょう。
2017年11月18日に柏原病院でNCPR講習会を開催し、私のインストラクター経験はこれで6回になりました。
まだ6回です。
もっとよいシミュレーションができたのではないかと自問します。
今回の記事は、自戒を込めた備忘録です。
NCPRの知識についてはこちらにも書きました。
併せて参考になると嬉しいです。
私は以前、生まれた赤ちゃんが有効な人工換気にも関わらず、心拍60未満に至った経験をしました。
ですが、NCPRを繰り返し練習していたため、胸骨圧迫を遅延なく実施することができ、その結果かどうかは分かりませんが赤ちゃんを救うことができました。
これはNCPR講習会のおかげだと私は思っています。
一人でも多くの赤ちゃんを救えるように、少しでも現場で役に立つNCPR講習会を今後も開催していきたいです。