「患者の運命は俺が変える!」
仮面ライダーエグゼイドの決め台詞です。
本作は医者とゲームがテーマの仮面ライダーです。
医者であり、ゲームが大好きな私にとって、まるで私のための仮面ライダーです。
主人公の宝生 永夢(ほうじょう えむ)は、最初は小児科の研修医でした。
しかし、2017年3月時点では外科研修医になってしまいました。
彼が最終的にどの科を志すのかは分かりませんが、また小児科に帰ってきて欲しいところです。
今日は、そんな仮面ライダーについて熱く語る……のではなく、「患者の運命は俺が変える!」というフレーズについて考えます。
先に断っておきますが、今回の記事は持論が強いです。
職業倫理は人によって違うので、どうしても持論になってしまいます。
このページの目次です。
予定説
救われるものと滅びにいたるものとの両方が、神によってあらかじめ決定されている。
カルヴァン
キリスト教にもいろいろな考え方がありますが、16世紀のカルヴァンは、神によって人間の運命はすでに決まっているという考え方でした。
人間の努力ごときで救われるかどうかは決まらず、あらかじめ決められた運命に沿って人間は神の意思を全うすることが大切とされました。
決定論的世界観
ある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、それらのデータを解析できる悪魔が存在するとすれば、この悪魔にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には運命の全てが見えているであろう。
ピエール=シモン・ラプラス
いわゆる「ラプラスの悪魔」で知られる一節です。
ラプラスは18世紀から19世紀の数学者です。
水ポケモンではありません。
サイコロを投げたとき、サイコロに加えられた力、角速度、地面との摩擦を一瞬にして計算できれば、どの目がでるか計算可能という考え方です。
人の思考も脳の状態を電気生理学的に解明し、次行う行動を予測できるのだとすれば、サイコロを投げる前から、どのような力でサイコロを投げるかを予測することができます。
つまり、サイコロを投げる前から、サイコロの目が何かを予言できるということです。
これは、決定論的世界観にもつながっており、「結局のところ人間は運命を変えることができない」という理論に至ります。
不確定性理論
ここまでは、運命はすでに決まっていて変えられないという考え方でした。
カルヴァンは「運命は神によってすでに決定されている」という考え方です。
ラプラスは「ある瞬間のあらゆる物体の力学的状態と力を観測できれば、次の瞬間の状態は計算可能なので、帰納的に運命をどこまでも予言できる」という考え方です。
しかし、「ある瞬間の物体の状態を正確に観測することはできない」という理論が登場しました。
その名も「不確定性理論」です。
量子力学では、原子の位置と運動量は同時に求められません。
したがって、ある瞬間の物体の力学的状態を正確に求めることはできないということになります。
バタフライ効果
原子の位置が違うくらいで運命が変わるのでしょうか。
原子の位置くらいでは実生活は何も影響が出ないのではないかと反論もできます。
確かに大きな視点で見ると、ほとんどの物体がニュートン力学(シンプルな数式で未来の状態が計算可能な力学系です)に従っています。
しかし、時に非線形な力学系(突拍子もない方向に突然動く世界)もあります。
気象予報などはまさにその典型でしょう。
ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?
エドワード・ローレンツ
気象学者のローレンツは、わずかな観測誤差ですら、気象予報にとって大きな誤差となる言いました。
いわゆる「バタフライ効果」として知られる一節です。
非線形な力学系(突拍子もないことが突然起きる世界)では、わずかな誤差がすごく大きな影響を及ぼします。
これを「カオス理論」という言い方もします。
シュレーディンガーの猫
バタフライ効果にのっとってしまえば、医者が患者の運命を変えないほうが難しいでしょう。
採血をするだけで運命を変えているかもしれません。
診察するだけでも運命を変えているかもしれません。
もしくは、医者がくしゃみをするだけでも、患者の運命が変わっているかもしれません。
シュレーディンガーの猫に従えば、医者が患者を観測しただけで、患者の運命は変わっているかもしれません。
箱の中の猫は、生と死が重なり合っている。あなたが箱を開け、猫を観測した瞬間、猫は生か死かのどちらかに収束する。
エルヴィン・シュレーディンガー
運命は決まっているのか
運命が決まっているという考え方の理論を2つ、決まっていないという考え方の理論を3つ紹介しました。
結局のところ、運命は決まっているのでしょうか。
それとも、決まっていないのでしょうか。
これは、それぞれの価値観なので、決して押し付けられるものではありません。
と前置きしつつ、私は都合のよいように捉えればよいと思っています。
悩んで決めたことが、よい方向に働いたのなら、「運命を変えた!」と言ってもいいでしょう。
逆に、熟考して決めたことが、悪い方向に働いたのなら「そういう運命だったんだ」と気持ちを切り替えるのも大事だと思います。
しかし、この都合のいい考え方は、一般的な人の場合です。
小児科医は、子どものことを思って、治療が子どもにいい方向に働くことを願って、診療をします。
悩んで決めたことは、いい方向に働くことを想定しています。
つまり小児科医は「運命は変えられる」と考えるべきでしょう。
小児科医が十分に変えられていない子どもの運命
しかし、小児科医は本当に子どもの運命を変えているのでしょうか。
これは小児科医であれば、必ず自分に問いかけたことがあると思います。
咳が出ている子どもに、アスベリンを出しました。
5日後に子どもの咳が治まりました。
これは、子どもの運命を変えたのでしょうか。
この事案は「運命を変えた!」などと言うにはおこがましすぎます。
おそらく、何も薬を出さなくても、この咳は5日で治まっていたからです。
他にも運命を十分に変えていないと思えるような事例は以下です。
- ウイルス性腸炎に整腸剤を処方し、3日で下痢がおさまった。
- RSウイルス肺炎に輸液・吸入・吸引・去痰薬で治療し、4日で軽快した。
- 気管支喘息に抗ロイコトリエン薬と吸入ステロイドを使用し、5年後に寛解した。
- アレルギー性鼻炎に抗ヒスタミン薬を処方した。
- 1型糖尿病にインスリン指導と食事指導をした。
子どもの回復力は高く、正直なところ多少の病気は何もしなくても治ってしまうのが小児科の特徴です。
小児科医において経過観察していれば勝手に治ることが多いのです。
ウイルス性腸炎も、RSウイルス腸炎も、子どもの回復力で治っただけです。
小児科医のおかげで治ったわけではありません。
気管支喘息は、抗ロイコトリエン薬や吸入ステロイドによって、喘息死は減り、入院患者数も大きく減りました。
ですが、抗ロイコトリエン薬や吸入ステロイドによって、気管支喘息自体が治っているわけではありません。
症状を抑えているだけで、気道の慢性炎症という疾患の本体は治せていないのです。
つまり、いつまでも薬をやめることができません。
そして、薬をやめることができたとしたら、それは患者さんが自然によくなっただけで、治療の結果よくなったわけではありません。
患者さんが治癒(まったく薬を使うことなく、健常な生活を送れる状態)に至らないと、「運命を変えた!」とは思えません。
鼻炎も1型糖尿病も、治癒に至っていないので、運命を変えきれていないように感じてしまいます。
(もちろん少なからず運命は変えているのですが、不十分です)
小児科医が十分に変えた子どもの運命
いっぽうで、「運命を変えた!」と自信を持って言えるのは次でしょう。
- 白血病を化学療法で治した。
- 腸重積を整復できた。
- 舌下免疫療法によってアレルギー性鼻炎が軽快した。
- 在胎22週、400gの赤ちゃんを後遺症なく育てることができた。
- ネフローゼ症候群で寛解後、3年以上再発していない。
自然軽快しない病気で、治癒(まったく薬を使うことなく、健常な生活を送れる状態)に至れると「運命を変えた!」と思えます。
白血病や腸重積は、自然軽快せず、治癒に至れたので、運命を変えたように感じるのでしょう。
舌下免疫療法も、アレルギーの自然歴を変えることができる治療法です。
今までアレルギー性鼻炎に対しては抗ヒスタミン薬で誤魔化すことしかできませんでしたが、舌下免疫療法は治癒を目指すことができます。
今回、私は舌下免疫療法について書く予定だったのですが、思いのほか「運命を変える!」の部分で文字数が増えすぎたので、こういう記事になってしまいました。
舌下免疫療法については、あらためて別の記事にしましたので、こちらをお読みください。
在胎22週の超未熟児は、ある意味自然治癒です。
赤ちゃんが自分の力で大きくなったとも言えます。
ネフローゼ症候群も、寛解はステロイドの力ですが、その後再発しなかったのは本人の力とも言えます。
ですが、この2つは、自然治癒に至るまでにとても大きな困難があり、医療者が積極的に介入しないと自然治癒にまで至れない病気です。
こういう病気で、自然治癒まで持って行けると、医者は「運命を変えた!」と思えるのでしょう。
まとめ
- 運命が決まっているかどうかは、いろいろな考え方がある。一般的には、その時々で都合よく解釈すればよい。
- 小児科医に関して言えば「運命は変えられる」と考えるべきである。
- 小児科医の治療は「運命を十分に変えられた」か「運命を十分には変えられなかった」かに分類される。
- 医者にとって「運命を変えた!」と胸を張れるのは、「自然治癒が期待できないものの、医者が介入することで治癒に至ることができる病気」または「自然治癒が期待できるものの、自然治癒に至るまでにとても大きな困難があり、医療者が積極的に介入しないと自然治癒にまで至れない病気」が治癒に至ったときである。
- 治癒とは、まったく薬を使うことなく、健常な生活を送れる状態である。
私が神戸大学の新生児病棟を研修したとき、指導医の先生に最初に教わったのは「お前は触るな」でした。
とにかくベッドサイドに行って、患者さんに触れるのが研修だというのが内科や外科のスタイルでしたから、この言葉にはとても驚きました。
ですが、超未熟児の診療の基本は「できるだけ触らないこと」です。
「ミニマル・ハンドリング」とも言います。
「余計なことをしない」というのも、「運命を変えた!」につながるのが、小児科医の独特な場面かもしれません。